「同じ条件で始めた会社が、どうして違う結果になるんでしょうか」
同じ業種、同じ時期、似た規模で始めた二社が、五年たつと別の場所にいる。片方は人が増え、もう片方は始めたときと同じ人数のまま。理由を並べることはできます。ただ、並べたところで、どれがどれだけ効いたのかは分かりません。だから私は、原因を当てにいくのをやめました。代わりに、判断のときに自分がどこを見ていたかを残します。あとで並べ直せる形にしておくほうが、次の一手に効くと考えているからです。
結論から書きます。判断の材料は、受け取ったものと、これから選ぶものに分けられます。この2つを分けて見るための道具が、昔から2つありました。片方は、生まれた時点で決まっていて動かせないものを見ます。もう片方は、これから来る日のうちどれを選ぶかを見ます。
全部を一緒くたにすると、動けなくなります。分ければ、手を付けられるところが残ります。この記事でするのは、その分け方の話です。
2つの入口は「見る対象」が違う
第1題で、入口が2つあると書きました。ここではその中身ではなく、それぞれが何を見ているのかだけを見ます。
生まれで見る側は、自分が何を対象にしているのかを、本の中で自分から書いています。
命禀有生之初誠哉是言也
命は生まれた最初に受ける。まことにその通りだ。そう書いてあります。この側が見ているのは、一度きりで、あとから動かせないものです。
その時で見る側は、別のことを書きます。
天地神祗之所向則順之所忌則避之
向かうところには順い、忌むところは避ける。順うも避けるも、これからすることです。この側が見ているのは、これから選べるもののほうです。
仕事の言葉に置き換えると、下の表のようになります。この置き換えは私がしたもので、ここで引いた二本の本のどちらにも、この対応は書かれていません。責任は私にあります。それでも私がこの表を出すのは、もとの言葉のままでは会議で使えないからです。使えない正確さより、線を引いたうえでの使いやすさを、私は選びます。
| 入口 | 見ている対象 | 仕事で言うと |
|---|---|---|
| 生まれで見る | 一度きり・動かせないもの | 創業の経緯/業種/立地/資本/これまでの取引関係 |
| その時で見る | これから選ぶ・動かせるもの | いつ着手するか/誰に頼むか/どの順で進めるか |
どちらが優れているという話は、この先に出てきません。2つを並べて優劣を述べた行を、私は見たことがないからです。
生まれで見る側の本が、自分で書いている限界
ここからが、この題の芯です。どちらの入口も、自分の側の限界を、自分の本の中に書いています。
まず、生まれで見る側。『三命通會』は、答えを出す前に、自分で問いを立てます。
五行八字相同而富貴貧賤壽夭之不一其故何也
同じ五行、同じ八字。それなのに、富貴貧賤も寿夭も一致しない。それはなぜか。生まれた時点のデータをもとに人を読む本が、そのデータが同じでも結果が揃わないという事実を、誰かに指摘される前に自分から書いている——ここが、この一節のいちばん重いところだと私は思っています。
本は、その問いに答えます。ただし、答えきってはいません。
雖然修為在人人定勝天
そうはいっても、修めるかどうかは人にある。人が定まれば天に勝つ。私は、この一句がこの本のいちばん正直なところだと読んでいます。生まれた時点で決まると言い切ったあとで、それでも人の側に余地を残している。書いた人は、自分の道具が全部を説明しないと知っていた。私はそう受け取りました。この句が古い言い回しの引用なのか編者自身の言葉なのかは、私の写しでは決められません。ですから私は、誰の言葉かを断らずに、句そのものとして扱っています。
そして、答えの結びです。
由前言之雖係於命亦在於人之積與不積耳
命に係わるとはいえ、その人が積むか積まないかにもある。これが、この本が自分の限界について書いた結論です。
私が大事だと思うのは、そのすぐ後ろです。本はここで話を切り捨てていません。易の言葉を続けます。
積善之家必有餘慶積不善之家必有餘殃
限界を認めたうえで、では何が残るのかを置いています。認めて終わり、ではありません。
ひとつ書き添えておきます。同じ八字でなぜ結果が違うのか、その仕組みを本は説明していません。そうなる、と書くだけです。私も足しません。
その時で見る側の本も、自分で限界を書いている
その時で見る側も、同じことをしています。自分の道具がどこまで効くのかを、自分で書いています。
『協紀弁方書』の編者は、十二で一巡する日の分け方について、こう書きます。
夫止以建除論吉凶未甚彰顯著明也…特其吉凶之大小劑量則生於建除
この十二だけで吉凶を論じても、はっきりしない。ただし、そこで止めていません。引用の後半がそれで、この十二で決まるのは吉凶そのものではなく、その大小の度合いのほうだ、と書いています。捨ててはいないわけです。
もう一つ。こちらは編者自身の言葉ではなく、編者が『考原』から引いたものです。
亦未可以執一而論也
一つに決めて論じることはできない。段の締めも同じ向きで、変化は尽きないから挙げられるのは一隅にすぎない、と書いています。さらに後ろでは、この十二の説がいつごろ起こったものかを調べ、古い聖人に結びつけた権威づけのほうは後から付いたものだと、自分で明かしています。
【場面】判断材料を、2つに分けてみる
たとえば、こんな会社があったとします。架空です。
従業員十二人の加工業。設備の入れ替えに二千八百万円かかる見積もりが出てから、三か月ほど決めきれずにいました。反対する人がいたわけではありません。ただ、社長の頭の中で、資金繰りと、取引先の反応と、繁忙期の段取りと、頼む相手の当てが、いっぺんに動いていた。
それを、紙に二列で書き出してもらったことがあります。左に、いま動かせないもの。右に、これから選べるもの。
左には、立地。取引先の構成。これまでの借入。季節で決まる繁忙。四つとも、今日の会議で変えられるものではありません。
右には、いつ着手するか。誰に頼むか。どの順で進めるか。相手にいつ話すか。こちらも四つ、残りました。
三か月ずっと動かなかったのは、左の四つを見ていた時間が長かったからでした。左を見ているあいだ、決められることは一つも増えません。
分けたからうまくいった、とは書きません。その後どうなったかは、この会社の話であって、他の会社の話ではないからです。書けるのは、迷いの中身を二列にしたら、右に四つ残った、というところまでです。
次にすること
いま迷っている判断を、一つ選んでみてください。そして、その判断の材料を「動かせない」「動かせる」の二列に書き出してみる。それだけです。
左が長くなったら、それは考えが足りないのではなく、見ている場所が左に寄っているということかもしれません。右に何が残ったかを数えると、次に手を付けるところが決まります。
この記事で見たのは、道具の側の話でした。生まれで見る本も、その時で見る本も、自分の限界を自分で書いています。私は、書いていないことを足しません。そのうえで申し上げると、限界を自分で書いた道具のほうが、私は信用できると思っています。会議に持ち込むなら、当たると言い切る道具より、どこまで言えるかを言える道具のほうが役に立ちます。
次の第4題では、六曜(大安・仏滅)を見ます。日どりの話で、いちばん名前を聞くものです。