「同じ条件で始めた会社が、どうして違う結果になるんでしょうか」

同じ業種、同じ時期、似た規模で始めた二社が、五年たつと別の場所にいる。片方は人が増え、もう片方は始めたときと同じ人数のまま。理由を並べることはできます。ただ、並べたところで、どれがどれだけ効いたのかは分かりません。だから私は、原因を当てにいくのをやめました。代わりに、判断のときに自分がどこを見ていたかを残します。あとで並べ直せる形にしておくほうが、次の一手に効くと考えているからです。

結論から書きます。判断の材料は、受け取ったものと、これから選ぶものに分けられます。この2つを分けて見るための道具が、昔から2つありました。片方は、生まれた時点で決まっていて動かせないものを見ます。もう片方は、これから来る日のうちどれを選ぶかを見ます。

全部を一緒くたにすると、動けなくなります。分ければ、手を付けられるところが残ります。この記事でするのは、その分け方の話です。

2つの入口は「見る対象」が違う

第1題で、入口が2つあると書きました。ここではその中身ではなく、それぞれが何を見ているのかだけを見ます。

生まれで見る側は、自分が何を対象にしているのかを、本の中で自分から書いています。

命禀有生之初誠哉是言也

もとの言葉では、『三命通會』(私の電子写しより/sanmei-tsukai-1.txt:54)

命は生まれた最初に受ける。まことにその通りだ。そう書いてあります。この側が見ているのは、一度きりで、あとから動かせないものです。

その時で見る側は、別のことを書きます。

天地神祗之所向則順之所忌則避之

もとの言葉では、『協紀弁方書』(私の電子写しより/kyoki-benpo-03.txt:90)

向かうところには順い、忌むところは避ける。順うも避けるも、これからすることです。この側が見ているのは、これから選べるもののほうです。

仕事の言葉に置き換えると、下の表のようになります。この置き換えは私がしたもので、ここで引いた二本の本のどちらにも、この対応は書かれていません。責任は私にあります。それでも私がこの表を出すのは、もとの言葉のままでは会議で使えないからです。使えない正確さより、線を引いたうえでの使いやすさを、私は選びます。

入口見ている対象仕事で言うと
生まれで見る一度きり・動かせないもの創業の経緯/業種/立地/資本/これまでの取引関係
その時で見るこれから選ぶ・動かせるものいつ着手するか/誰に頼むか/どの順で進めるか
2つの入口を左右に並べ、片方に動かせないもの、もう片方に動かせるものを置いた図
入口の違いは、当てる力の違いではなく、見ている対象の違いです。

どちらが優れているという話は、この先に出てきません。2つを並べて優劣を述べた行を、私は見たことがないからです。

生まれで見る側の本が、自分で書いている限界

ここからが、この題の芯です。どちらの入口も、自分の側の限界を、自分の本の中に書いています。

まず、生まれで見る側。『三命通會さんめいつうかい』は、答えを出す前に、自分で問いを立てます。

五行八字相同而富貴貧賤壽夭之不一其故何也

もとの言葉では、『三命通會』(私の電子写しより/sanmei-tsukai-1.txt:54)

同じ五行、同じ八字。それなのに、富貴貧賤も寿夭も一致しない。それはなぜか。生まれた時点のデータをもとに人を読む本が、そのデータが同じでも結果が揃わないという事実を、誰かに指摘される前に自分から書いている——ここが、この一節のいちばん重いところだと私は思っています。

本は、その問いに答えます。ただし、答えきってはいません。

雖然修為在人人定勝天

もとの言葉では、『三命通會』(私の電子写しより/sanmei-tsukai-1.txt:54)

そうはいっても、修めるかどうかは人にある。人が定まれば天に勝つ。私は、この一句がこの本のいちばん正直なところだと読んでいます。生まれた時点で決まると言い切ったあとで、それでも人の側に余地を残している。書いた人は、自分の道具が全部を説明しないと知っていた。私はそう受け取りました。この句が古い言い回しの引用なのか編者自身の言葉なのかは、私の写しでは決められません。ですから私は、誰の言葉かを断らずに、句そのものとして扱っています。

そして、答えの結びです。

由前言之雖係於命亦在於人之積與不積耳

もとの言葉では、『三命通會』(私の電子写しより/sanmei-tsukai-1.txt:54)

命に係わるとはいえ、その人が積むか積まないかにもある。これが、この本が自分の限界について書いた結論です。

私が大事だと思うのは、そのすぐ後ろです。本はここで話を切り捨てていません。易の言葉を続けます。

積善之家必有餘慶積不善之家必有餘殃

もとの言葉では、『三命通會』が引く『易』の言葉(私の電子写しより/sanmei-tsukai-1.txt:54)

限界を認めたうえで、では何が残るのかを置いています。認めて終わり、ではありません。

ひとつ書き添えておきます。同じ八字でなぜ結果が違うのか、その仕組みを本は説明していません。そうなる、と書くだけです。私も足しません。

生まれで見る側の本が、自分で立てた問いと、その答えの結びを並べた図
問いを立てたのも、答えきらなかったのも、同じ本の中でのことです。

その時で見る側の本も、自分で限界を書いている

その時で見る側も、同じことをしています。自分の道具がどこまで効くのかを、自分で書いています。

協紀弁方書きょうきべんぽうしょ』の編者は、十二で一巡する日の分け方について、こう書きます。

夫止以建除論吉凶未甚彰顯著明也…特其吉凶之大小劑量則生於建除

もとの言葉では、『協紀弁方書』編者の按(私の電子写しより/kyoki-benpo-04.txt:72)

この十二だけで吉凶を論じても、はっきりしない。ただし、そこで止めていません。引用の後半がそれで、この十二で決まるのは吉凶そのものではなく、その大小の度合いのほうだ、と書いています。捨ててはいないわけです。

もう一つ。こちらは編者自身の言葉ではなく、編者が『考原こうげん』から引いたものです。

亦未可以執一而論也

もとの言葉では、『協紀弁方書』が引く『考原』(私の電子写しより/kyoki-benpo-04.txt:72)

一つに決めて論じることはできない。段の締めも同じ向きで、変化は尽きないから挙げられるのは一隅にすぎない、と書いています。さらに後ろでは、この十二の説がいつごろ起こったものかを調べ、古い聖人に結びつけた権威づけのほうは後から付いたものだと、自分で明かしています。

その時で見る側の本が、自分の道具の効き方の範囲を書いている箇所を並べた図
どちらの本も、自分の側の限界を、自分で書いています。

【場面】判断材料を、2つに分けてみる

たとえば、こんな会社があったとします。架空です。

従業員十二人の加工業。設備の入れ替えに二千八百万円かかる見積もりが出てから、三か月ほど決めきれずにいました。反対する人がいたわけではありません。ただ、社長の頭の中で、資金繰りと、取引先の反応と、繁忙期の段取りと、頼む相手の当てが、いっぺんに動いていた。

それを、紙に二列で書き出してもらったことがあります。左に、いま動かせないもの。右に、これから選べるもの。

左には、立地。取引先の構成。これまでの借入。季節で決まる繁忙。四つとも、今日の会議で変えられるものではありません。

右には、いつ着手するか。誰に頼むか。どの順で進めるか。相手にいつ話すか。こちらも四つ、残りました。

三か月ずっと動かなかったのは、左の四つを見ていた時間が長かったからでした。左を見ているあいだ、決められることは一つも増えません。

分けたからうまくいった、とは書きません。その後どうなったかは、この会社の話であって、他の会社の話ではないからです。書けるのは、迷いの中身を二列にしたら、右に四つ残った、というところまでです。

迷いの中身を左右二列に分け、左に動かせないもの、右に動かせるものを書き出した図
架空の例です。分けた結果ではなく、分け方のほうを見てください。

次にすること

いま迷っている判断を、一つ選んでみてください。そして、その判断の材料を「動かせない」「動かせる」の二列に書き出してみる。それだけです。

左が長くなったら、それは考えが足りないのではなく、見ている場所が左に寄っているということかもしれません。右に何が残ったかを数えると、次に手を付けるところが決まります。

この記事で見たのは、道具の側の話でした。生まれで見る本も、その時で見る本も、自分の限界を自分で書いています。私は、書いていないことを足しません。そのうえで申し上げると、限界を自分で書いた道具のほうが、私は信用できると思っています。会議に持ち込むなら、当たると言い切る道具より、どこまで言えるかを言える道具のほうが役に立ちます。

次の第4題では、六曜(大安・仏滅)を見ます。日どりの話で、いちばん名前を聞くものです。